日本映画の歴史



日本映画の夜明け



1895年(明治28年)12月1日にリュミエール兄弟(オーギュストとルイ)により「シネマトグラフ」が発明されました。



1897年(明治30年)に稲畑勝太郎はリュミエール社から「シネマトグラフ」の装置2台とフイルム、そして興行権を買い取り、 リュミエール社の映写技師であるコンスタン・ジレルを連れて帰国。

早々、同年の1月下旬から2月初頭にかけての約1週間、四条河原町の京都電燈株式会社の庭で試写実験が行われた。 それは雪の降る中で悪戦苦闘して行われたのです。
試写作品は「赤ん坊の食事」「リヨン駅に到着する列車」。



同年2月15日に大阪の南地演舞場でわが国最初の有料上映が行われた。



その後稲畑勝太郎は、関西中心に興行を行い、大成功を収めた。

しかし上映を商売としてやっていくには大変だったようで、興行権をフランス留学時代の友人の横田万寿之助と弟の横田永之助に関東地方の興行がゆだねたが、 永之介は興行から手を引いた。



1900年《明治33年)7月永之介は兄の寿之助や稲畑勝太郎と共にフランスの万国博覧会を視察し、 帰国後稲畑勝太郎から「シネマトグラフ」の興行権を譲りうけ、「シネマトグラフ」の巡回興行を行い、 事業拡大に伴い1901年(明治34年)横田商会を設立した。兄の寿之助はほどなく手を引いている。




1901年(明治34年) 浅草に「浅草電気館」が出来る。日本最初の映画館。

1902年(明治35年) 1月、 白井松次郎・大谷竹次郎兄弟、松竹合名会社を創立。

1904年(明治37年)日露戦争を撮影した「日露戦争活動大写真」を製作した。




横田永之助はフランスの会社と契約を結び日露戦争の記録映画を日本各地で上映し大成功を収めた。



日露戦争が終わった頃から横田永之助は自作の映画に着手し始める。

その時に京都西陣の千本座の経営者である牧野省三《日本映画の父)に出会うのです。

そして映画制作を委託。

第一作「本能寺合戦」で映画制作が本格的に始まるのです。



1907年尾上松之助が「碁盤忠信・源氏之礎」でデビューした。 『目玉の松ちゃん」として全国的な人気を博した。



横田商会は映画制作に当たり撮影所を確保した。
1910年(明治43年)二条城撮影所が完成。 二条城西南に300坪の敷地に簡素なつくりの撮影所が建てられました。

そこで第一作作品「忠臣蔵」が製作された。

牧野省三監督、尾上松之助主演のこのコンビが日本映画の隆盛を生んだ記念すべき作品が「忠臣蔵」なのです。





京都で最初の撮影所である二条城撮影所は日本映画の歴史的な場所なのです。 2年間で閉鎖される。(日本で最初の撮影所は吉沢商店が建てた目黒撮影所です)



1912年(大正1年)9月「日本活動写真株式会社」が出来る。(日活)
横田商会、福宝堂、M・パテー商会、吉沢商会の4大映画会社の合併で作られた。






1920年(大正9年)「松竹キネマ合名社」(松竹の前身)が設立される。

1921年(大正10年)牧野省三が日活から独立する。

1923年(大正12年)牧野省三は「マキノ映画株式会社」を作る。

1925年(大正14年)日本最初の独立プロダクッション「阪妻プロ」を阪東妻三郎が設立する。

1928年(大正3年)アメリカで世界最初のオールトーキー「ニューヨークの灯」が上映される。

1928年(大正3年)片岡千恵蔵・月形龍之介・嵐寛寿郎と続々独立プロを設立する。

1929年(昭和4年)5月9日 トーキー映画「進軍」が日本で初公開される。
(東京新宿の武蔵野館で上映される)

1929年7月10日浅草水族館に(榎本健一 エノケン)「カジノ・フォーリー」を旗揚げする。





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★稲畑勝太郎
(1862〜1949年)

京都の和菓子屋に生まれる。

京都府師範学校で才能を認められ、わずか15歳で染色技術を学びにフランスに留学する。

8年間の滞在期間にリヨン工業学校、リヨン大学で染色理論や応用科学を学んだ。

帰国後、京都染工講習所の所長を務め指導に当たった。

1890年(明治23年9「稲畑染料店」を開業する。

また、フランスでの友人、リュミエール兄弟から「シネマトグラフ」の興行権を譲りうけ、日本で初めての映画上映をしたのです。




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