日活



日活の歴史





日活史



1912年(大正1年)9月10日 日本活動写真株式会社 が設立される。

横田商会、M・パテー商会、吉沢商会、福宝堂の4社の合併で日本最初の映画会社が作られた。

横田商会所有の「法華堂撮影所」を「日活関西撮影所」として使い日本映画界を活発なものにし、尾上松之助や大河内傳次郎などの スターを生んだのです。

1913年(大正2年)10月に日活向島撮影所が完成した。(日本で最初の撮影所である吉沢商会の目黒撮影所も日活が使用していた。)

1918年(大正7年) 日活関西撮影所が焼失。

1923年(大正12年) 向島撮影所で女優を採用する。(今までは、女形の男性が女性役を演じていた、女形の廃止。)

1923年(大正12年) 関東大震災の影響を受けて11月に向島撮影所が閉鎖され京都に移る。

1926年(昭和1年)9月 尾上松之助が急死(52歳)。(千本記念作品「荒木又右衛門」は興行新記録を達成)

1926年(昭和1年)10月 大河内傳次郎が日活に入る。

1928年(昭和3年)京都の太秦に撮影所が移る。

1942年(昭和17年) 日活は興行部門だけを残し新会社となる。

1946年(昭和21年) 配給会社として業績を上げる。(RKO作品「拳銃の町」を配給する)

1953年(昭和28年) 自社作品の製作を開始する。


1954年(昭和29年)3月15日 調布町下布田に撮影所を建設する。



同年6月27日 「国定忠治」「かくて夢あり」二本を公開する。


1956年(昭和31年)5月17日 「太陽の季節」公開。

石原慎太郎作品の「太陽の季節」は、日活再開以来の新記録を作る。
この作品で、石原裕次郎さんが人気沸騰して、太陽族作品が立て続けに公開された。


同年2月に作られた「ビルマの竪琴」がヴェニス映画祭で特別賞を受賞する。


1959年(昭和34年)8月 小林旭さん主演の『南国土佐を後にして」が大ヒット。


1960年(昭和35年)「日活ダイアモンドライン」


裕次郎さんと旭さんに赤木圭一郎、和田浩治さんを加えて、「日活ダイアモンドライン」を編成する。
週替りで新作を公開した。

小林旭さんの「渡り鳥シリーズ」「流れ者シリーズ」「銀座旋風児」・「拳銃無頼帖」の赤木圭一郎、和田浩治さんの「小僧シリーズ」 のヒット作品を生み出した。


1961年(昭和36年)裕次郎さんの事故により、宍戸錠さんが加わる。
赤木圭一郎さんの死亡により二谷英明さんが加わった「日活ダイアモンドライン」が出来上がった。


1971年(昭和46年)8月 「八月の濡れた砂」「不良少女摩子魔子」公開を持って日活は終息する。




昭和29年から昭和46年の17年間に1100本の作品が作られた。







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