東映



東映の歴史





東映史



1951年(昭和26年)東京映画配給が東横映画、大泉映画を吸収合併して「東映株式会社」が設立する。

そして東急の五島慶太が東急電鉄の経理部門を歴任していた大川博氏を社長に迎える。

26年当時東急の映画部門は赤字で、(10億とも言われていた)それを大川氏はわずか2年で黒字に転換したのです。

1952年(昭和27年)日動映画株式会社(旧日本動画映画)を買収。

1954年(昭和29年)プロ野球の東急フライヤーズの運営を東京急行電鉄から受託し東映フライヤーズとした。

1954年(昭和29年)「笛吹童子」が興行収入5億円の大ヒット。

1954年(昭和30年)「紅孔雀」が11億円の大ヒット。

出演:中村錦之助・有馬宏治・高千穂ひづる・大友柳太朗・東千代之介・西条鮎子・高松錦之助

東映時代劇の基礎となった映画です。



注:1952年(昭和27年)から1956年まで続いたNHKラジオドラマ、北村寿夫原作「新諸国物語」の映画化である。

「白馬の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「オテナの塔」「七つの誓い」の5部作であった。1年1作で放送された。



1955年東映動画株式会社を設立

1957年(昭和32年)大泉撮影所の隣に動画専用スタジオ(東映アニメーション)を建設。

1959年(昭和34年)日本教育テレビ(テレビ朝日)を開局する。



50年代は時代劇ブームを起こし。完全に東急から独立した。

自主作品の2本立て興行や専属映画館の増設などで収益を向上させることに成功した。

キャッチフレーズ「時代劇は東映」を掲げ、他社との差別化をはかり、

「スターシステム」を確立して映画フアンを獲得して観客動員NO.1になる。



1960年(昭和35年)第二東映を設立。

60年に入り売上拡大を狙い、製作本数を倍増したが失敗、第二東映を2年で解散する。



1964年(昭和39年)9月30日東急から独立。 東急を引き継いだ五島昇氏と大川博氏との確執があったとされている。



60年だい後半から映画不況に入る。

1966年(昭和41年)日本教育テレビ株の半数を朝日新聞に譲渡する。

1972年(昭和47年)東映フライヤーズを日拓ホームに売却する。



東映は新たな路線を開拓した。 70年代はじめの任侠映画である、高倉健・鶴田浩二・藤純子らにより任侠ブームが起きた。

73年からは「仁義なき戦い」「トラック野郎」などの菅原文太・愛川欽也が人気を博した。

1975年《昭和50年)東映太秦映画村を作る。(京都撮影所の一部を使用する)

1989年(昭和64年)東映Vシネマ(オリジナルビデオ)で映画の製作本数を補い、映画以外での展開を進めている。





主な映画作品

ひめゆりの塔

1954年「紅孔雀」(中村錦之助)

1954年「笛吹童子」(中村錦之助)

新吾十番勝負シリーズ(大川橋蔵)

水戸黄門シリーズ(月形龍之介)

旗本退屈男シリーズ(市川右太衛門)

1961年宮本武蔵シリーズ(中村錦之助)

飢餓海峡

1961年「反逆児」大作主義へ傾く

1962年「王将」

1963年「五番町夕霧楼」

1963年「人生劇場 飛車角」沢島忠監督 時代劇から任侠映画時代到来

1964年「日本侠客伝」マキノ雅弘監督・「博徒」小沢茂弘監督  

1965年「網走番外地」石井輝男監督 

1966年「兄弟仁義」山下耕作監督

1967年「組織暴力」佐藤純弥監督  「渡世人」佐伯清監督

1968年「緋牡丹博徒」 山下耕作監督  「人生劇場 飛車角と吉良常」内田富吐夢監督

1969年「侠客芸者」山下耕作監督 「渡世人列伝」小沢茂弘監督

1972年「関東緋桜一家」藤純子引退記念映画 マキノ雅弘監督 任侠映画時代の終結

1973年「仁義なき戦い」深作欣二監督、実録路線映画の第一作目 菅原文太主演

1977年「日本の首領」実録映画人気ダウン

1978年「柳生一族の陰謀」




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 大川 博  

  東急の五島慶太に招かれて赤字の映画部門の「東映」の 立て直しを依頼される。

昭和26年、10億円の赤字を2年で返済。

改革はさらに、自社作品の2本立て興行に切換え、東映の映画専門館を多数建て、利益率の向上に成功します。

また、スターシステムを確立して時代劇の「東映」と言うキャッチフレーズを作った。



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